ルールと目的

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ルールにハマらない人間はおしおきされちゃうのです。

ルールを守ることってすごく大切だよね。
違反したら罰せられることもあるし、守っていればご褒美があることも。

でもさルールをしっかり覚えて、ルールを守るだけでいいのかな。

何のためにそのルールがあるのか、どうしてルールができたのか……。
そういう背景や目的を知ることもすごく大切な気がするんだよね。

・スピード違反

自動車の免許を取るために教習所へ通う人ってたくさんいるよね。
確かに道交法ってすごく複雑で、たくさん覚えることがある。

憧れのあの車に乗りたくて……。

この道路は60kmまでしか出してはいけませんよ!
ここでは一時停止しなくてはダメだよ!
カーブでは徐行しなさいよ!

いろんな看板や標識があってさ。
それも全部覚えないといけないの。
たいへんだよね。

ところで、どうして法定速度を守ってるの?
どうしてスピードをオーバーしちゃいけないのかな。

たぶん多くの人は「法律で決まっているから」って答えるように思う。

でもさ法律で決まっていなければ、どんな運転をしてもOKなのかな。
それはちょっと違うよね。

つまりそのルールは、安全な運転のために定められたんじゃないのかなぁって。
もちろん、何かしらほかの目安や基準もあるとは思うよ。
でもほとんどの場合、やっぱり安全運転のほうが理想的だよね。

・ルールの穴をつく

世の中にあるさまざまなルールや規則。
たしかにあらゆるところに細かく設定されていると思う。

気付いたらルールっていう枠の中で生きていました、みたいな。

でもさ、ルールなんて所詮人間が作るものなわけでさ。
一から十まで完璧に網羅するなんてのは無理だよね。

そうしたルールの欠落部分や穴とも呼ばれるものって存在するもんでさ。
今の時代ではとくに、その穴をついて自分にとって有利に物事を運ぶことをテクニックという人が多いような気もする。

ルールの穴をついては、規制側が穴を埋めて、また次の穴をついて……こんなことの繰り返しだよ。

水漏れしては穴を埋めて。また漏れては埋めて。そのうちタンクごと新しいものに交換されちゃいそう。

こうしたルールによるがんじがらめってさ、一見、論理的なように見えるよね。
でもボクはまったくもってして現代感に合致しない非論理的な部分だと思うんですよ。

でもこれにはしっかりと存在意義がある。
そしてメリットも多くある。

人間一人ひとりが自分で考えて判断すると、大きなブレが生じてしまうよね。
だからこそ、ルールを細かく定めて考え方のテンプレートを作ってあげたほうが判断のブレが少ないってこと。
逆に言えばルールを守ってさえいれば、とくに不利益を被ることも少ないって話。

でもさ……ごく一部の人がルールの穴をつくことによって得られる利益が大きすぎてさぁ。
その利益を考えると、ルールを守る人がアホらしいって感じてしまうのもまた問題だよね。

本当は一人ひとりが、自分でしっかりと考えて判断できる能力があればいいんだけどさ。
残念ながらまだまだそうした個々の判断に委ねられるほど、個人の能力は高くないって考えるべきなのかな。

・困った人にやさしく

道徳や倫理ってあるよね。
小学校でもよく習うやつだ。

道徳や倫理って、善悪のはかりを心の中に得る学問なのかな。

こうした教育ってさ、ボクはどんな受験科目よりも大切だと思ってる。
世の中、道徳や倫理がしっかりとした個人の土台を作っていさえすれば大丈夫だとすら思ってる。

本来、世の中って各々が尊重されて、社会の一員としてみんなが活躍できることが望まれてるよね。

ここで最初のお話。
企業は社会的責務ってやつで、従業員数に応じて障害者を雇うことになってる。
これはルールとして決まっていて、雇わない場合にはある意味でのペナルティなんかも存在する。

じゃあ経営者に対して「どうして障害者を雇うの?」と聞けば、さっきの話に戻るかな。
きっとルールで決まっているから、守らないと罰則があるから……なんて答えが返ってきそうだよね。

でも本来は、障害者であっても生きていくために仕事をしていく社会が求められているからじゃないかな。

きっと社会はそうして回っている。
でも目的や背景を理解せずに、ルールを守ることだけが礼賛される傾向にもあるよね。

だから障害者を守るようなセリフとともに、同じ口から老人は邪魔のようなセリフが出るケースがあるんだな。
誰しもが老人になることは避けられない。
それでも社会の一員として生きていける社会構造が大切じゃないのかな?

それなら社会的に定義を持つ障害者って人たちだけじゃなく、社会的に障害者じゃない人たちに対してつらく当たる必要ってどこにあるんだろう。

これは障害者側も同じ話でさ。
たとえば車椅子がエレベーターに乗れない問題ってあるよね。

車椅子ユーザーが満員のエレベーターに乗れなくて、SNSに写真つきで怒りをぶちまけたんだ。

日ごろから溜まっていた何かが爆発したのかもしれませんね。

ボクも車椅子ユーザーではあるけれど、社会で生きる以上はまず自分たちができる範囲のことをすべきだと思う。
もちろんできないことはできない。
だからこそお互いが自然と助け合える社会が理想じゃないかな。

でもルールで規制する、罰則を与える。
そうしたルールを作らせたほうが後世のためになる!!みたいな考え方が浸透してるのよ。

ボクはまったく違う考えだ。
ルールや規則で縛られないと何もできないことは非常に恥ずかしい話。

しっかりと目的を見据えなければ、単なるパワーバランスの崩壊がいたるところで起きるだけだよ。
ルールで自分と反対側の属性の人たちを縛ることは悪手だと思っている。

もちろん危害を加えられたら正しいやり方でやり返せばいい。
そんだけの話。

でもどんなに声をあらげたって、やっぱり被害者意識で凝り固まってしまえば多くの理解は得られないよね。
まずは自分たちでできる範囲のことをやる。
そのうえでできない部分は助け合う。

まぁ……理解されにくい話かもしれないけどさ。
それでもボクはルールに縛られずとも、自然と困った人に手を差し伸べられるような社会や人を願ってしまうし。
なによりも自分自身が、そうありたいと思うんだ。

・守ることで守れるもの

それでも世の中はルールだらけ。
息をすることすらルールで決められてしまいそうな空気感があるよね。

深呼吸ですら、苦しくなりそう。

じゃあこんな考え方ってどうかな。

そもそもルールってのは、いろんな人が共同生活をするうえでの決まり事だ。
多くの場合、自分を含めたみんなの安心や安全を守るために決められている。

つまりルールを守ることは、自分や周囲の人たちを守ることにもつながるんじゃないかな。

ルールでぎっちぎちに縛られて、身動きできない気分になることもあるけれどさ。
そのルールがあるおかげで、自分や大事な人の毎日が守られていたりもするんだよね。

公共の場では、ルールを守ることで「あなたを大事にしていますよ」「あなたをないがしろにしませんよ」って伝えることもできる。

もちろん家庭にもルールがあるよね。
家庭でも、ルールを守ることで「あなたを大事にしていますよ」「あなたをないがしろにしませんよ」って伝えることができる。

言葉だけじゃなく、態度でも示したい。

これってひとつの誠実さだよね。

それならさ。
やっぱりまずはボク自身がルールを守っていきたいと思うんだ。

ってなわけで。
今日も奥さんとのルール「ごはんはかわりばんこでつくる」を実行にうつします、ハイ。
ごはんが余っていたし、チャーハンでもつくろっかな。

そのルールの目的は何?ルールを守ることは大事な人を守ること。

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