隣の芝生が青く見えるのは〇〇だから?

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レンズ越しとは違う風やにおい、まさに味わい。

久々の休日に憧れのあの景色を見に行きたい。
まさに観光の醍醐味の一つだよね。

日本だけではなく世界中に「絶景」とよばれる場所は沢山あるし、それを目的に旅行をする人も。

景色、つまり単なる視覚情報ならば写真や絵画でも十分なはずだけど、それでも実際に訪れるとまた違う感覚があるもの。
そこにはきっと空気や温度、音、さまざまな感覚があって、それらが合わさって初めて「絶景」になるのかもしれないよね。

・素晴らしい景色

「百聞は一見に如かず」なんて言葉がある。
誰かから百回聞くよりも、実際に1回見たほうが理解できる。みたいな感じ。

100回の座学より1回の実技、なんてのもいいかもね。
それほど実際に身をもって経験することは大事って事なんだと思う。

もちろん座学もとても大事なんですけれどもね。

さっきの景色のお話もそう。
写真で素晴らしいと思って実際に赴いてみるも、実物はショボい。
なんてことだってあるわけでさ。

それでも実際にそこに行って自分が経験したことは実りなわけだよね。

たしかに写真だと私たちは、プロがもっともよいと感じた被写体を見る機会が圧倒的に多い。
写真でも動画でも、とても素晴らしく見えるように作られてるはずだよね。

これってさ、その場に足を止めてその瞬間だけで判断することは危ういって話に繋がる気がした。
つまり足を止めて周りを眺めると、よりいっそうその風景を素晴らしいものと認識するような、そんなお話。

・移り行く眺め

でも実際はさ、その風景はきっと潮の流れや風の声、鳥のさえずりや乾いた空気……色んな要素が合わさってできたものだよね。
もちろん風景や景色を素晴らしいと感じることに害はないよ。

ただこれが風景ではなく、他人の生活や仕事についての見え方だとどうなるだろうか。

あの人はああだ、この人はこうだ。

つまり他人を羨ましいと感じたり、ズルいと感じる。
そうした他人がよく見えてしまう感情は、自分がその場に足をとどめていることが理由の一つじゃないかな。

だってさ、デスクに座っていればメモ書きは普通に読めるけれど、ジョギングしながらだったら読めやしない。
同じく歩く速度ならいい景色も、新幹線の速度ではよくわからないなんてことだってあるよね。

他人がよく見えたとき、多くの場合、妬みなんてものに転がっちゃうのが人間ってもんでさ。
妬みって感情がいい結果に繋がるってのは非常に稀だよね。

だからといって他人の生活が認識できなくなるほど突っ走れ、なんてことは言わない。
何事も適切にバランスよく前に進むことが大事なんじゃないかな。

だからさ、他人のペースやリズムなんてあんま気にせず、自分なりの一歩一歩で進めるといいよね。
疲れたら自分のペースで休んで、また歩き出せばいい。

・犬のフン

自分は歩き続けている!!

と多くの人は言うと思う。
でもさ、やっぱり生活や人生について悩んだり考えたり、そうするとどうしても顔は下を向いてしまうよね。

ふと気づけば目に映るのは自分の足元。そんなときもありますよね。

昔インターネットでこんなお話を見たことがある。

「子どものころは犬のフンをよく踏んでいたけれど、大人になってからは踏まなくなった。
今でも子どもはフンを踏んでいる。それはきっと下など向かず前を見て歩いているからだ。」

なるほど。
前や上を向いて歩いていれば犬のフンを気づかずに踏むかもね。

でもいいんじゃないかな。
犬のフンを踏んだって洗えばいいし、何なら笑い話にもなるよ。

目標に向かって前なり上をしっかり見据えて歩いていれば、犬のフン程度のものを気にする必要もなさそうだ。

子どものころは足場が悪くても平気で走っていたっけ。

もちろんその場にとどまっていれば周りの良い景色に囲まれて、犬のフンを踏むことだってないよね。
けれど人生において足をとめていることで得られるものってのはほとんど無いような気がする。

それなら、フンでもガムでも踏めばいい。
そんな気持ちでボクは今日も歩いていくんだ。

いつだってでっかい夢であふれていた子ども時代を思い返して。
あえて自分からフンを踏みに行くくらいの気持ちで、一歩ずつ進んで行きたいよね。

周囲が実際よりもよく見えるのはあなたが立ち止まっているからかもしれない。歩けば不運なこともあるが、幸運は歩いていないとつかめない。

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記事内の挿絵はAIにより生成されたものです。
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